売約済★レッドラベル☆マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)、コンドラシン指揮バイエルン放送交響楽団 / チャイコフスキー:ピアノ協奏曲No.1 オリジナル http://ow.ly/4JnI1

売約済:マイケル・ティルソン=トーマスのマーラー・ファン待望の全集( Mahler Cycle (Complete Symphonies Songs With Orche )が5月24日にようやく発売されます。初回入荷は少ないのがクラシックの現状で、毎日重版されるコミックとは大変な違い。各ショップでも扱い数に限度が設定してあるのでアルゲリッチ人気は格段の違いを感じます。CDは ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 共にライヴ録音の2大名曲の取り合わせ、二組の指揮者とオーケストラを相手に30歳代のアルゲリッチの奔放で緻密な演奏の刺激は未だに聴き手に感じさせる感動は衰えず。このレコードが発売された1982年当時、私が務めていたレコード店で最も良く売れたレコードがこの盤だったことを懐かしく思い出します。それほどに凄い人気でした。予約だけで200枚ほど有り、これはクラシックでは考えられない数字です。http://ow.ly/4JnI1

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マルタ・アルゲリッチ(pf)、コンドラシン指揮バイエルン放送交響楽団 / チャイコフスキー:《ピアノ協奏曲No.1》は売約済に成りました。

アナログ・オリジナル盤について、詳しくはこちらをご覧下さい amadeusclassics.otemo-yan.net

通販レコード 新着盤 2011年4月30日掲載

【協奏曲】

  • レーベル:蘭 PHILIPS
  • レコード番号:6514 118
  • オリジナリティ:レッド・ラベル、オリジナル

曲目:チャイコフスキー:ピアノ協奏曲 No.1

演奏:

  • ピアノ:マルタ・アルゲリッチ
  • 指揮:キリル・コンドラシン
  • 管弦楽:バイエルン放送交響楽団

試聴感とレコード盤、ジャケットのコンディション:

  • このレコードが発売された1982年当時、私が務めていたレコード店で最も良く売れたレコードがこの盤だったことを懐かしく思い出します。それほどに凄い人気でした。予約だけで200枚ほど有り、これはクラシックでは考えられない数字です。
  • 盤は超美品。大変に良い状態で鑑賞でき、何の問題もありません。
  • ジャケットも同じく美品で、大変綺麗な状態です。盤、ジャケット共に文句の無いNMコンディションです。

ⓇNM ⒿNM

価格 ¥9,000(¥9,450 税込み、送料無料)

  • お問い合わせはこのエントリーに、コメントして下さい。稀少なオリジナル盤を紹介しているアマデウスクラシックス( http://amadeusclassics.otemo-yan.net/ )で扱っているレコードは 一点物ですから、オーダーは先着順に応じさせて下さい。
  • SOLDOUT、売約済と成っているレコードでも扱っているレコードは 一点物ですから同じコンディションのレコードは再びご用意は出来ませんが、御希望の場合は探しますのでご連絡下さい。

 

CD:ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番

創造の源=“鐘”の音が聞こえなくなる日

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873~1943)
帝政ロシア時代の作曲家、ピアニスト、指揮者。1917年、革命により政情不安となったロシアを家族と共に出国。その後は一度も祖国の地を踏むことなく、アメリカにて没す。
ラフマニノフの創作活動の原点とも言える教会の鐘の音。祖国を離れたとき、彼はその音を持ち出すことはできなかった。

ラフマニノフの作品からは、よく“鐘の音”が聞こえてくる。

彼のもっとも有名な作品のひとつ、「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」の冒頭はロシア正教の鐘の音を表現している。
フィギュアスケートでも使用される「前奏曲作品3-2」の愛称は“鐘”。この愛称はラフマニノフ自身によるものではないが、鐘の雰囲気は伝わる。
作曲者が堂々と作品名に“鐘”の名を与えたのは、「合唱交響曲「鐘」作品35」。こちらは人の一生を鐘になぞらえて、各楽章が「銀の鐘」「金の鐘」「真鍮の鐘」「鉄の鐘」と題されている。鐘のオンパレードといっていいくらいの“鐘”名曲だ。
ラフマニノフは少年時代を鐘の音のなかで過ごした。彼にとって鐘の音はインスピレーションの源となっていたのだろう。

「教会の鐘はロシアのあらゆる街を支配していました。ロシア人のだれもが、ゆりかごから墓場まで鐘の音に付き添われているのであり、この影響から逃れられる作曲家はひとりもいません。私はずっと朗らかな鐘の音や哀調を帯びた鐘の音に親しんできました」。

そんなラフマニノフが、1917年の演奏旅行で出国して以来、二度と祖国の土を踏むことができなかったのだから、人の運命というものはわからない。十月革命による混乱を避けて、ラフマニノフは家族とともに北欧へのツアーに出かけた。これが祖国との別れになる。経済的な必要に迫られて、ラフマニノフは作曲よりもピアニストとしての活動に力を入れる。 演奏家としてもっとも稼げるところはどこか。ラフマニノフはアメリカに渡ることを決意した。彼の演奏はセンセーションを巻き起こした。ここから四半世紀にわたる多忙をきわめる演奏活動が続くことになった。
アメリカに渡って以来、作曲家ラフマニノフの筆は進まなくなる。演奏家としてあまりに多忙だったことに加えて、彼はインスピレーションの源を失っていたのだ。

「ロシアを離れたとき、私は作曲するという希望を失いました。故郷を失った私は自分自身を捨てたのです。音楽の源と伝統と故郷の土を失った亡命者には、創作の希望はありません」

その後、アメリカ時代にも何作かの傑作が生まれたことを考えれば、作曲家はこれほど悲観する必要はなかったかもしれない。ただ、彼の頭のなかで鐘の音が響くことはもうなかったにちがいない。